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  ある男の恋

 

 

 

その日、葵は少し悩んでいた。

主である楓は、あまり愛想は良くないが、理不尽に怒ることはない。
しかし、無駄なことや必要のないことを好まず、定期的に来ていた商人の出入りも、最小限になった。
そんな楓に、文がきたのである。
差出人は、隣国の領主の次男。
兄は跡取りとして精力的に行動しているようだが、この弟については、あまり話をきかなかった。
隣国からの旅人によると、家を継ぐことはないから、商家に入り浸り、商人の真似事をしているらしい。
どんな人物か問うと、皆が曖昧な表情で「悪い人ではないけれど…」と言葉を濁した。
領主同士以外では、今まで何の交流もない。
そんな人からの突然の文である。
何の連絡もなかったことから、大した用件ではないと思うが、宛名は楓になっている。
先方の身分を考えると、自分の判断で破棄するわけにはいかないだろう。
楓が嫌がると分かっていて見せなければいけないのが、少し億劫だった。

「失礼します」
「入れ」

楓はいつものように机に向かって書き物をしていた。
朝早くから夜遅くまでそうして政務をし、その合間に屋敷の様子を見て廻ったり、剣の稽古もしている。
昔から努力を怠らなかったが、もう少し、肩の力を抜いてもいいのではないか。
ずっと見守ってきた葵としては、そう思うこともあった。

「楓さまに文がきておりますが…」
「誰からだ」
「…隣国の領主のご子息からです」
「…?何か問題があったのか」
「いえ…とりあえず、ご覧いただけますか」
「わかった」

一目でそうとわかる薄く仕立てられた文には、少しきどって書かれた文字が並んでいた。
文字の間から、わざわざ焚き染めたのだろうか。
香の華やかな薫りがした。

「…」

文を読んでいた楓の目線が止まった。
そして、そのまま固まっている。

「…楓さま?」
「…あ、ああ…」

幼いころから付き合いがあるとはいえ、葵の前では隙を見せない楓である。
しかし今は、戸惑っているのがありありとわかった。

「どのようなご用件でしたでしょうか」
「…」

眉を寄せて、どう答えるか悩んだ結果、無言で手紙を葵に差し出した。

「…失礼します」

そっと、文を手に取り読み始めた葵であったが、その動きはすぐに止まった。
理由は、手紙の内容であった。

 

 

麗しの紅花の君へ

旅人の噂で、ずっと君のことが気になっていた。
先日、仕事で立ち寄ったときに見つけた君は、思ったよりもずっと美しかった。
艶やかな黒髪に、意思を秘めた瞳。
君を一目見たその時から、僕の世界は色褪せてしまった。
瞼の裏に浮かぶのは、あの日の君の姿だけ。
ああ、麗しの紅花の君よ。
一度でいいから、僕と会ってくれないだろうか。
君が望むものなら何でも手に入れるし、必ず君を幸せにする自信がある。

 

何とかそこまで読んだところで、目の前の手紙が消えた。
楓が持っていったのである。

「…恋文…ですね」
「そう…だな…」

驚きの余り、ぼんやりしている葵は気がつかなかったが、楓の頬が常よりも赤く染まっている。
幼い頃からほとんどの時間を屋敷の中で過ごし、異性といえば、父やその家臣しか知らなかった少女にとって、初めての恋文であった。
戸惑うのも無理はない。

「どうなさいますか」
「そうだな…」
「…僭越ながら、直接お返事を書かれるのはおやめになった方がよろしいかと」
「…何故だ」
「見込みがあると思われてしまいますので…」
「…わかった。適当に返事をしておいてくれ」
「かしこまりました」

こうして、一件落着かに思えたが、ここまで熱烈な文を書く男が、代筆の返事一通で諦めるはずもなかった。

 


(2013年6月5日)






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