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  第3話  狐

 

背の高い木の間に、潅木が生い茂り、その間にわずかな道が見える。
道といっても、草で覆われ、人が歩くもののようには見えない。
そこを、一定の速さで歩いていく人影がある。
楓だ。
姿は見えないが、鴉も近くにいるのであろう。
長い時間歩いているようだが、その足取りに疲れは見えない。
足音に隠れるように、草が動く音がした。
動物でもいるのだろうか。
背後の気配に気を配りつつも、楓が足を止めることはない。
すると、小さな頭が草むらから出て、楓を見た。
小麦色の尖った耳が、様子を伺うように細かく動く。

「…私に何か用か?」

足を止めた楓が、振り返ることなく声をかける。
その声に驚いたのか、耳は草むらに隠れてしまった。
しかし今度は、太い筆のような尾が見えている。
先端は白く、隠そうとしているのだろうが、草の中を動いているため、目立ってしまっている。

「…狐…か?」

振り返って呟いた楓の声に大きく震えると、その動きが止まり、見えなくなった。
風が吹き、木の葉のこすれる音がする。
その合間に、小さな声が聞こえた。

「…だいじょうぶ、だいじょうぶ。ぜったい、見つかってない…」

少年だろうか、幼い声である。
さきほどの影が隠れた辺りから聞こえる。
自分に言い聞かせるようなその声は、小さいながらも必死さを感じさせた。
楓がゆっくりと近づいて行くが、その気配にも気がつかないようである。

「…おい、お前」

近くからした声に、勢いよく顔を上げたのは、幼い少年であった。
しかし、その頭には、大きな耳がついており、尾も見え隠れしている。
驚いたのか、大きな眼を見開き、何も言えないまま、口を動かしている。

「…大丈夫か?」

思わず楓が問いかけると、恥ずかしそうにうつむくと、小さく頷いた。

「…ならばいい。…私に、何の用だ」

何度か自分の足元と楓を見た後、少年は小さく答えたが、その声は風の音に紛れて消えてしまった。

「…」

聞き返そうと楓が少年を見ていると、その視線に耐え切れなくなったのか、少年は、くるりと宙返りをすると、小さな狐の姿になり、木立の中へ逃げていった。

 

なぜ、少年が狐になったのか。
そもそも、あれは人なのか。あるいは、妖なのか。
そんなことを気にする様子もなく、楓は再び、歩き始めた。
しかしその視線は、どこか遠くを見ているようであった。

 

しばらく歩いていくと、小さく、せせらぎの音が聞こえてきた。
川があるのだろう。

「…鴉」

楓は呼びかけに応えて現れた鴉に尋ねた。

「この近くに水場があるようだ。方向はわかるか」

森の空気に感じる水気は、その場所を探るには、まだ小さすぎる。
しかし、少し考えると、鴉は先に立って歩き出した。
その後ろを、無言で楓もついて行く。

 

風に揺れる木の葉の音。
時折聴こえる、水の流れる音。
そして、乾いた落ち葉を踏む、小さな足音。
規則正しく、一定の速さを崩さないそれは、二人の人物が歩いていると考えると、異常なほど小さな音であった。
楓の足音は、その体格や足の運びから、あまり騒々しくないことが予想される。
しかし、鴉のものと思われる足音は聴こえない。
無造作に歩いているようで、計算された動きは、秋の山の中でも、足音を殺すことを可能にしているのだろう。

 

ふと、鴉が立ち止まった。
少し遅れて足音が消え、楓も立ち止まったことがわかる。
二人の視線の先には、目的の川が見えた。
しかし、立ち止まった理由はそれではない。
山の色合いに溶け込むような、落ち着いた色合いの着物を着た若い女が、そこにいたからである。
後ろ姿だけでも、美しさを十分に感じさせるが、惜しいことに、その髪は、一般的に美しいとされる漆黒とはほど遠い、淡い色であった。

「…」

楓は小さく、何事かつぶやいた。
振り返った鴉は、その様子をうかがっていたが、そのまま姿を隠す。
構うことなく、楓はじっと女を見ているが、その視線にも気がつかないのか、川岸にいる女の様子は変わらない。

 

小さく息を吸うと、楓は川へ歩いていった。
意識しているのかもしれない、今までより、かなり大きな足音をさせている。

「…姉上」

その足音で、人の接近に気がついていたのであろう。
女は驚くことなく、ゆるやかに振り返った。
琥珀色の切れ長の目が美しい女である。

「…どなたですか」

硬い声で女は問う。
その手は、自分の着物を強く握っていた。

「…失礼。…人違いでした」

女の顔を見ていた楓は、そう言うと笠を取り、頭を下げた。
その顔は少し、落胆に歪んでいるようにも見える。

「そうですか…」

隠されていた楓の顔を見て、相手が少女だとわかったからだろうか。
女は握り締めていた手をほどくと、足元の岩に腰掛けた。

「御姉様を捜しているのですか」

少し柔らかい声の問いかけに、楓は小さくうなずいた。

「私と同じですね…私は、弟を捜しているんです。…まだ小さいのに、少し目を離した間にどこかへ行ってしまって…」

そう言うと、溜息をついた。
美しい女が、そのときはまだ年若い、少女のように見えた。

「そうだ、せっかくだから、一緒に捜しませんか?二人で探せば、きっと早く見つかりますよ」

明るい声での提案に、楓は首を横に振った。

「どうしてですか?」

女から少し離れた岩に浅く腰掛けると、楓は落ち着いた声で答えた。

「…自分で、見つけたいのです。…姉上は、望んでおられないかもしれませんが…」
「…そんなこと、ないと思いますよ」

女はそう言うと、立ち上がった。
小さく風が吹いたのだろうか、近くの草むらが音をたてる。

「自分の兄弟に捜してもらって、嬉しくないことなんてありません。…ね、棗」

最後の言葉は、背後の草むらに向けたものであった。
二人の視線の先で、先ほど、楓の前から逃げていった少年が顔を出す。

「お姉ちゃん…」

どうやら、この少年が女の捜していた弟なのであろう。
ゆっくりと草むらから出てきたその体には、やはり、狐の耳と尾がついている。

「捜したのよ。勝手に遠くへ行ってはいけないと、言ったでしょう」
「ごめんなさい…」

声の調子と同じように、耳と尻尾もたれてしまう。
悄然とした様子に、少女は弟に近寄ると、軽く頭を撫でた。
叩かれるのかと首をすくめた弟も、安心したのか、顔をほころばせる。

 

そんな二人の様子を見ていた楓のもとに、木陰から鴉が近寄って行く。
岩から立ち上がると、楓は手に持った笠を被り、再会を喜ぶ姉弟に背を向け、立ち去ろうとした。

「待って。人を捜しているのなら、この先の社に行くといいわ」
「誰かさがしてるの?」

少年は、立ち止まり振り返った楓にではなく、自分の姉に尋ねた。

「お姉さんを捜してるのよ。…この道をしばらく行くと、石段があるの。その先に社があるわ。…きっと、何か手がかりになると思うの」

指し示された方向に目をやり、軽く礼をすると、楓は、先程までと同じように、一定の速さで歩き出した。
迷いのない、しっかりとした足取りである。
その後を静かに追った鴉も消え、河原には姉弟二人が残された。

 

「お姉さん、みつかるといいね」
「…きっと、あの方が助けてくださるわ。…優しい人だもの」
「…そうだね」
「さ、早く帰りましょう。晩御飯の支度をしないと間に合わないわ」
「は〜い」

二人は宙返りをすると、獣の姿になり、草むらへ消えていった。
少し大きさの異なる黄金色の尾が見え隠れしていたが、すぐに消え、川岸を静かに秋の風が流れていった。

 

 

幕間 追憶

 

広い庭園を囲む簀の上に、欄干に軽く身をもたれかけ、幼い少女が佇んでいる。
年の頃、七つぐらいであろうか。
艶やかな黒髪と、紅い目の愛らしい少女である。
広い庭園の中は、大小さまざまな石や木で山や川の様子が再現され、とても趣がある。
しかしそんな庭を見るでもなくぼんやりしている少女は、少し、退屈そうであった。

「楓」

部屋の中から声がする。
その呼び声に、少女は表情を変えると、振り返った。

「ごめんね、お留守番させてしまって」

そう声をかけたのは、楓と呼ばれた少女の姉である桜だ。
十を二つ三つ、過ぎた年ごろだろうか。
外出していたのか、平服の上に、厚手の衣をまとっていた。

「姉さま、お帰りなさい。いえ、ご無事でよかったです。…あの方がいらっしゃるのに、何かあるわけもないのですが…」
「ふふ、それを聞いたらきっと、あの方もお喜びになるわ。楓が仲良くしてくれない…と、嘆いておられたもの」
「…別に、楓もあの方を嫌っているわけでは…」
「ええ、わかっているわ」

穏やかに話しながら、身なりを室内のものに整える。

そんな姉を手伝っていると、楓は、姉の髪に挿してある花に気がついた。

「姉さま、これは?」

楓の視線に気がついた桜は、自ら花を手に取り見せた。

「あの方に頂いたのよ。あちらで一番美しい花なんですって。」

瑞々しい紅色の花弁が印象的な花である。恐る恐る触れながら、楓は首をかしげた。

「こんな花があるのですか?」
「谷に咲いているのですって。人間は行くことができないそうよ」
「そうなのですか…」

じっと花を見る楓の表情は、どこか暗い。
その様子に気がつかないはずもないが、桜は違う話をした。

「綺麗な花でしょう。私、この花好きだわ。楓はどう思う?」
「楓は……楓は好きになれません…」
「こんなに綺麗なのに?」
「でも…真っ赤で恐ろしいです…」
「血の色みたいだから?」

驚いた楓は、息をのみ、姉の顔を見つめた。
しかし桜は動じることなく、言葉を続ける。

「私には、別の色に思えるわ」
「…なんですか?」
「楓の色。あなたの瞳の色よ」

それを聞き、俯いてしまった楓の頭を、優しく撫でると、ひざを曲げ、そっと目を合わせた。

「やさしくて、あたたかくて、素敵な色だわ…私の大好きな楓の色」
「姉さま…」

小さく震える声は、少し、涙ぐんでいるようでさえあった。
そんな楓を抱き寄せ、ゆっくりと桜は話しかける。

「その瞳を厭うことはないわ。とても美しいのだもの。…私は大好きよ」
「…はい…ありがとうございます」

そう言うと、涙ぐんでしまったのが恥ずかしいのか、少し距離をとった。
そんな楓を見ていた桜だが、何事か思いついたようである。

「ああ、いいことを思いついたわ。楓、少し動かないでいてね」
「姉さま?」

明るい声の姉に、わけもわからないまま待っていると、桜は紅い花を楓の髪に挿した。

「やっぱりよく似合うわ」

少し離れたところから全体を確認し、満足そうにうなずく。
慌てて楓は花を取ろうとした。
しかし、自分では見えないため、花を傷めそうで触れることができない。

「いけません!あの方から、姉さまがいただいたものなのに…」

困った楓が姉に声をかけるが、彼女はあっけらかんとしていた。

「あら、言わなければ大丈夫よ。私と楓、二人だけの秘密。ね?」
「姉さま…」

少し悩んだ様子であったが、姉の柔らかな微笑みに釣られるように、妹も笑った。

「はい、わかりました。二人だけの秘密、ですね」
「そうよ、絶対に誰にも言わない秘密」
「はい」

微笑みあう二人の姉妹を、暖かな日差しが包んでいた。

 


(2013年4月15日)

 
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