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第5話 狼

 

日差しもあまり差し込まない、山の奥。
一人の少女が歩いている。その肩には、一匹の栗鼠が乗っている。
彼女が足元の小枝や枯葉を踏む音の他は、静まり返っている。

 

ふと、丸くなっていた栗鼠が、顔を上げたと思うと、一息に地面へ跳びおり、周囲を威嚇し始めた。
小さな体ながら、毛を逆立てている。
少女も、ゆっくりと腰の刀を抜くと、辺りを見回した。

足音が止むと、他の気配も感じやすくなる。
木々の間から、一匹、また一匹と姿を現したのは、狼であった。
灰色や茶色の体が、次々と緑から浮き上がってくるようである。
その総数、十は下らない。
周りを取り囲み、いつ襲い掛かろうかと、狙っているようであった。
相手は少女一人だと、侮っている様子もない。
少女は、刀を握りなおすと、いつでも切りかかれるように構えた。
どちらも動かない、いや、動けない。

そんな空間に、新たな影が入ってきた。
大きな灰色の狼である。
毛並みも良く、その大きさは、他の狼と比べると、差は歴然としている。
彼、あるいは彼女は、小さく頭を振ると、仲間を少し遠ざけた。
群れの長らしきその狼の指示に従い、少女と栗鼠の囲いが解かれ、狼たちは下がっていく。

しかし、少女は刀を下ろしつつも、油断なく様子を伺っている。
栗鼠も威嚇したままである。
そんな相手の様子を気にせず、話しかけた。

「人間がこんな山奥で何をしている」

それは、先程の大きな狼であった。
落ち着いた大人の男の声である。
先ほどの狐の一件と同様、狼が人語を話す事実に、驚きもせず、楓は刀をしまった。

「…人を捜している」

相手の敵意がなくなったからだろう。
栗鼠も威嚇をやめ、肩の定位置へと戻っていく。

「こんな、山奥でか?」

不思議そうな問いかけに、黙って肯く楓。
狼は、何か見極めようとするかのように、じっと視線を合わせた。
そして、小さく息を吐いた。

「…嘘ではないようだな」

ゆるりと辺りを見回し、少女に話しかける。
態度と同様、理性的な口調であった。

「この山は、一種の聖域だ。人間は滅多なことでは入れない。…ここで捜しても無駄だ。どうやってここまで来たかは知らないが、早々に立ち去った方が良いだろう」
「…いや、そうはいかない」
「何故」
「…聖域だからこそ、この山に来た。…きっと、ここにいる」
「…そうか」

少女の、静かだが強い主張に、それ以上、何も言えなくなったのだろう。
狼は話を変えた。

「もう間もなく、日が沈む。夜は人の時間ではない…どこかで休んだ方がいい」
「ああ…ありがとう」

礼の言葉に、狼は器用に驚きを表すと、身を翻し、音もなく木々の間へと消えていった。
いつの間にか、他の狼の気配も消えている。

 

そこへ、別行動をしていたのだろう、鴉が戻ってきた。

「…先程の、暁という男…」

誰にともなく呟いた楓に、鴉は問いかけるように目線をやった。

「…いや、何でもない。…もう日も暮れるな」

すると、先に立ち、鴉が歩き出す。
黙って後を追うと、少し開けた場所に出た。
鴉は、ここを見つけたのかもしれない。

「今日はここで休むか」

そう言った主に、どこからか敷物を取り出して広げる。
楓は持っていた包みをその上に降ろし、小さく息を吐いた。
その横顔には、少し、疲れが見える。
しかし、空を見上げた彼女の目は、何か強い決意を秘めているようであった。

 

 

幕間 追憶

 

夜更けである。屋敷の中は寝静まっており、人の気配はない。
しかし、ひとつの部屋にだけ明かりがともっていた。
部屋の主である少女は、深刻な顔つきで書面を見ている。
焔に照らされていてもなお白く見える横顔は、細く、儚げである。

 

廊下から、遠慮がちに忍ばせた足音が聞こえてきた。
少女は素早く書状を傍らの箱にしまうと、明かりの届かない場所へ隠すように置いた。
そして立ち上がり、障子を開ける。
廊下には、十をいくつか過ぎた年ごろの少女がいた。
寝巻きの上に一枚羽織っただけの、薄着である。

「…楓、どうしたの」

優しく声をかけられ、少女は言いにくそうに俯いた。
明かりのついている室内と比べ、廊下はひんやりとしている。
部屋の主は、やってきた楓の手をとり、中へ招き入れた。

「ほら、こんなに冷えて…」
「…桜姉様…ごめんなさい」

そう謝った妹は、部屋に入ったものの、俯いたままじっとしている。
冷えた小さな手を握ったまま、少女は布団を引き寄せ、妹にかけた。

「謝らなくていいのよ。…こうして、夜にお部屋に来るのも久しぶりね」

言葉通り、桜は穏やかな笑顔を浮かべている。
姉の言葉に、やっと顔をあげた楓だったが、その顔はまだ、不安そうであった。

「十を超えて、姉様にご迷惑をかけるなんて…」
「迷惑だなんて、思ってないわ。…むしろ、嬉しいのよ」

その言葉に、不思議そうに妹は首を傾げる。

「楓は何でも自分でやってしまうもの。私だって、姉らしくあなたを助けてあげたいのよ」

明るいその口調には、拗ねるような響きも入っていた。

「姉様はいつも、私を助けてくださっています」
「そう?」
「はい。…むしろ私は、姉様のお力になりたいのです」

そう言って、じっと姉を見つめる少女の目には、強い意志が漲っている。

「…ありがとう」

少し、困ったように笑う桜であったが、妹はそれに気がつかない。

「それで、今日はどうしたの」

話を変えたかったのか、最初の話題に戻したところ、楓の頬が赤く染まった。

「その…情けない話なのですが…」
「いいのよ、言ってごらんなさい」
「…怖い…夢をみたのです…」
「どんな夢だったの」

問われると、思い出すのも嫌なのか、少女の顔が暗くなる。

「…姉様の夢です。私に背を向けて、どんどん歩いて行って…。必死で追いかけても追いつけず、声をかけても、振り向いてくださらなくて…」

言いながら、その時の気持ちを思い出したのだろう。目が潤んできた。

「最後には、見えない壁で、近づけなくなってしまったのです…」

言った後、恐る恐る姉の表情を伺ったが、桜は、優しい微笑みを浮かべていた。

「そう…でも大丈夫よ。私はここにいるもの」

そう言って慰めるが、楓の表情は曇ったままである。
そんな妹の様子に、桜は明るく提案した。

「そうだ、今日はここで一緒に寝ましょう。一緒なら、そんな夢見ないわ」
「そんなっ、姉様にご迷惑では…」
「いいのよ」

そう言うと、やや強引に、桜は楓を寝かしつける。そして、小さな声で唄い始めた。
静かな子守唄である。
ゆるやかに広がり、夜の空気に染み渡っていくようであった。

しばらくすると、小さな寝息が聞こえてきた。
眠れなかったとはいえ、常であれば寝入っている刻限である。
妹のあどけない寝顔を見ながらも、姉の表情は優れない。
小さく息を吐くと、先ほど書状を入れた箱を部屋の隅に置き、上から着物で覆う。
そして自分の寝具を用意すると、明かりを消した。

 

外は美しい月夜である。
しかし、少女の心は、不安という霧で覆われているようであった。

 


(2013年4月15日)

 

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