第6話 妖
夜である。月にかかる雲を散らすように、冷えた秋の風が吹いている。
山の中に小さく、明かりがあった。木に覆われるような形で、開けた場所である。
中央に焚き火があり、その前に、小柄な少女が座っていた。
その膝の上には、小さな生き物がいるようだ。
時折、小さく手を動かして撫でている。
まだ乾いていない枝が混じっていたのか、炎がはぜた。
慣れない山歩きで、流石に疲れたのだろう。
炎を見つめる少女の眼差しは、どこかぼんやりとしていた。
「少し、火が小さくはないかね」
いつの間にか、少女の隣に、男の姿があった。
ごく一般的な服装をした、何の変哲もない男である。
夜の闇でその顔は見えないが、おそらく特徴のない顔をしているのだろう。
そう思わせるような声であった。
「いや…あまり山を荒らしたくない…」
少女の答えが気に入ったのか、男は微笑んだようであった。
「そうか…いい子だね」
「…そんなことはない」
楓の頬は、炎に照らされた以上にほんのり赤く染まっている。
「…この山へ、何をしに…?」
今度は自ら声をかけた楓に、男は少し考える様子を見せた。
「…ふむ…そう聞かれると困るのだけれど…そうだね、では、君と話すため、というのはどうだろうか」
その言葉に驚き、黙ってしまった少女に構うことなく、男は続けた。
「君は、何をしにこの山に?」
「…私は、姉様を捜しに…」
「お姉さんを…仲良しなんだね」
「…そう…だろうか…」
はっきりとしない楓の返答に、男は微笑んだ。
「でも、好きなのだろう?」
「…うん」
肯定しながら、ぼんやりと膝の上の栗鼠を撫でる。
言葉はなくとも、穏やかな空気であった。
「そうだ、君、あの人には会ったかね」
ふと、思い出したのか、男が話しかけた。
「あの人…?」
「君のお姉さんも、もしかしたらあの人が…」
男が話しかけたとき、一陣の風とともに、人影が二人の間をさえぎった。
鴉である。
背に楓をかばうように、苦無を構え、男を見ている。
ぼんやりと炎を見ながら会話していた楓も、我に返ったように表情を引き締め、男を見る。
炎の光が届いているはずなのに、やはりその顔ははっきりしない。
「ああ、お前もいたのかね…それじゃあ、大丈夫だね。気をつけて行きなさい」
そう楓に言い残すと、ゆっくりとその場を離れていく。
動く以上の速さで、その姿は闇へと溶けていった。
「今の男…人ではなかったのか…」
楓の問いかけに頷くと、鴉は手に持っていた厚手の布を渡した。
どこからか持ってきたのであろう。
「…ありがとう」
小さく礼の言葉を言い、布に包まった。
目を閉じた楓の表情は、どこか、張り詰めている。
主の顔色を横目で伺いながら、鴉は持ってきた枝を炎にくべた。
いつの間にか風はおさまり、月の姿は雲の向こうへ隠れている。
夜明けまで、まだ数刻ある。
朝はまだ、遠いようであった。
幕間 追憶
冬の午後である。
空は厚い雲で覆われ、昼間だというのに薄暗い。
屋敷の美しかった木々も葉を落とし、静謐な空間が広がっていた。
そこに、一人の少女が、着物の袖を翻し、駆け込んできた。
走っただけとは思えないほど、息を乱している。
立ち止まり、俯いたその表情は見えないが、握り締めた小さな手は、震えていた。
「…楓っ」
後を追ってきたのだろう。
その容貌の美しさ以上に、儚さを感じさせる少女がやってきた。
着物に乱れはないが、息をきらし、苦しそうな様子である。
「姉上、大丈夫ですか」
慌てて駆け寄る楓の手を、桜は握った。
「…よかった、追いついたわ…」
そう言って、微笑んだその額には、汗が滲んでいた。
姉の顔に、逃げ出してきたことを思い出したのだろう、妹はまた、俯いてしまった。
「…ねえ、楓。聞いてちょうだい」
息を整えた桜が、話し始めた。
その声は、まだ幼い妹に言い聞かせるようであったが、どこか、影があった。
「…いやです」
「楓」
姉の言葉を聞く前に、楓は首を振って、拒絶した。
「嫌ですっ!…私は、姉様を差し置いて、跡継ぎになんて、なりません!」
「楓、我侭を言ってはいけないわ」
「でもっ」
目に涙を湛えながら言い募る妹。
桜は、しゃがんで彼女に目線を合わせると、穏やかに語りかけた。
「…私では、皆をまとめることはできないもの。私の分も、楓に…」
「できません!!楓は、姉様がいないと駄目なのです!」
「いいえ。貴方なら、きっとできる…もっと、強くおなりなさい」
そう言って、優しく抱きしめる。
楓は、姉の肩に強く顔を押し付けた。
遠くで人の声がした。
二人の名を呼んでいるようである。
「話の途中で退席してしまったもの…皆、捜しているわね」
桜の言葉に、楓は、縋り付いていた体を離した。
二人の間を、風が通り抜ける。
「楓、手を出して」
おずおずと差し出された手の上に、紅いものが乗せられた。
それは、ある人物からもらい、桜がいつも簪としてつけていた、紅い花であった。
「姉様、これは…」
「…大事にするのよ」
「…は…い…」
自分の目と同じ、紅い花を、小さな手でそっと握る。
そして顔を上げる。
何かを決めた、強い顔であった。
自分を呼ぶ声へと歩いていく妹を、姉が見送る。
いつしか、雪が舞い始めた。
庭の木を、岩を、池を、白く覆っていく。
「桜様、こんなところにいらしたのですか!」
簀からかけられた声に、少女は顔をあげた。
その髪や着物にも、うっすらと白く雪が積もっている。
「ささ、早く中にお入りくださいませ」
「ありがとう…」
「ほら、こんなに冷えて…お体を、大事になさってください」
「…そうね…ごめんなさい」
そう言って笑った少女の顔は、いまにも、消えてしまいそうであった。
誰もいなくなった庭を、雪が白く染めていく。
人の居た名残が消えてゆく。
それが、その年の初雪であった。
(2013年4月15日)