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  第7話 女

 

細い山道を、二人の人物が歩いている。
日は昇った時間であるが、空は雲で覆われ、太陽の恩恵を受けることができない。
足元の石が、谷へと転がっていった。
水が流れているのだろうか。
谷底から、凍るような風が吹いている。
黒尽くめの人影が、もう一人を庇った。
小柄な少女は、風の勢いで、今にも谷へ落ちてしまいそうであった。

慎重な足取りで進むが、正面から強い風が襲う。
立ち止まり、足を踏みしめて耐える二人。
少女の被っていた笠が飛んでいった。

風が止んだとき、白い着物の女が、前方に立っていた。
その髪は、白銀色で、こちらを睨みつけている目も、青白い輝きを放っている。
主を背にかばった鴉だが、女は一瞬で、楓の目の前に移動していた。

「あの人を誑かしているのは、貴女ね…」

重く、冷たい声であった。
いや、声色だけではない。
女の吐息や身体から、実際に冷気が発せられているのである。

「…何の話だ」
「とぼけないでちょうだい。あれを持っているのでしょう」
「あれとは…」
「あの人は迷惑だと思ってるのよ」

女は話を聞こうとせず、一方的に責め立てる。
そんな二人の間に、割り込んだ影があった。
鴉である。
片手で楓を守り、もう一方の手で、苦無を構えている。
女は、冷たい眼差しで、応じた。

「…邪魔を…するの」

肯定も否定もしないが、鴉が身を引くことはない。
すると、女が発する冷気が強まった。

「そう…では二人とも、死ねばいいわ」

女から、身を裂くような、冷たい風が吹きつける。
強い風は辺り一面を凍らせた。
脇に生えた草だけでなく、大きな木も、根から枝先まで凍っている。
風に飛ばされてしまったのか、二人の姿はそこになかった。

 

「これで、あの人は私のもの…」

女は満足そうに息を吐いた。

「あの人とは、誰のことだ」

その時、木の上から声がした。
鴉に抱えられた楓である。一瞬で移動したのだろう。
その胸元、小物入れから、小さな白い物がいくつか、風に吹かれて飛んでいく。
女はそれを目で追うと、楓に向き直った。先ほどまでとは異なる、落ち着いた目である。

「…ごめんなさい。私の、勘違いね…」

女の敵意がなくなったからだろう。
地面に降り立った楓は、ゆっくりと女に近づいた。
傍にいても、先ほどまでの命の危険を感じる冷気はない。

「いや…あの人、というのは…?」
「…私がお慕いしている人です。…近頃、変な女につかまってしまって…」

言いながら、怒りを思い出したのだろう。
再び、冷気が強まった。

「…そうか」
「ご迷惑をおかけしました。よろしければ、これをお持ちください」

そう言って、女が袂から取り出したのは、鮮やかな紅い花であった。
強い冷気の中、弱る様子もなく、瑞々しい色を保っている。

「これは…」
「私が育てている花です。…よく、お似合いだと思いますよ」
「ありがとう…」

渡す際に触れた女の手は、氷のような冷たさであった。
しかし楓は、表情を変えぬまま、そっと花を手に取る。

「何のためにこの山に入ったのか存じませんが、ここはただの山ではありません。お気をつけくださいませ…」

数歩下がった女に、谷底から風が吹く。
楓が、腕で顔を庇い耐えていると、女の姿は消えていた。

 

受け取った赤い花を見る。
遠い過去の記憶が甦えった。
しかし、小さく首を振ると、小物入れの蓋を開ける。
中から、白い欠片が数枚、舞った。
花びらのようなそれは、文字の書かれた紙であった。

「やはり、あの方が…」

紙片を手に取り、小さく呟いた楓だが、花をしまうと顔をあげた。

「行くぞ、鴉。…間もなく、頂上だろう」

その顔は、常よりも白く見えた。

 

二人の視線の先に、大きな岩が見えている。
雲間から細い光が差していた。

 

 

  幕間 追憶

 

春の午後。
庭園の桜は盛りを迎え、風にその花びらを散らしている。
妻戸を開けた部屋の中に、そのうちの一枚が舞い込んだ。
部屋の奥には、小柄な少女が座っていた。
庭の美しさに目を向けず、手元を見ている。
乾いた音をたて、その手から落ちたのは花びらであった。
少女の手の花には、くすんだ赤色の花弁がほんの2,3枚しか残っていない。

「鴉…」

少女の小さな呼び声に応え、人影が表れた。
黒尽くめの人物は、少女の傍に膝をつく。

「これを…」

楓が差し出した、花であったものを受け取ると、鴉は主の顔を見た。

「これと同じ簪を作らせてくれ。…そっくり同じでなくても構わない」

一瞬、預かった物を見ていたが、頷くとその場を離れた。

 

柔らかな風が、春の空気を部屋へと運ぶ。
しかし、少女はどこか遠くを見ているようであった。
足元の乾いた花弁を手に取ると、丁寧に紙に包む。
憂いのこもる表情は、まだ幼い少女には不釣合いであった。

 

どこからか、春を喜ぶ人々の、明るい声がする。
少女は懐に包みをしまうと、静かに部屋を出て行った。

 

薄紅の花弁が、小さく浮かび、部屋の外へと飛んでいく。
雲一つない青空へと、風に乗って舞い上がる。
彼女の姉の成人の儀が行われる、数日前のことであった。

 


(2013年4月15日)

 
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