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  第1話 出会い

 

少女がその男と出会ったのは、夏の午後であった。

身重の母が体調を崩し、父も女中たちも皆、そちらに掛かりきりになっている。

幼いながらも彼女は一人、誰にともなく母の無事を祈っていた。

 

ふと、廊下から慌しい足音が聞こえてくる。


「桜様」


障子越しに、女が室内の少女に声をかける。

少女は不安そうにそちらを見た。


「少し、出かけます。よろしいでしょうか」

「…はい…気をつけてね」

「申し訳ありません、すぐに戻りますので…失礼します」


再び足音が遠のいていく。

桜と呼ばれた少女は、小さく唇を噛んだ。

何もできない己の無力さが、苦しかった。

 


風が吹き、庭の木が揺れる。

木漏れ日が踊る。

白い光は美しいが、熱いことに変わりはない。


「…母さま…」


少女の頬から、一粒、涙がこぼれた。

そのとき、一際強い風が室内に吹き込む。

腕で顔を庇うが、目も開けられないほどであった。

 

風が止み目を開けると、いつの間にか、庭に一人の男が立っていた。

見たことのない装束の男である。

この屋敷の人間ではない。

いつの間に現れたのであろうか。


「あなた、だれ…?」


少女は立ち上がり、簀へと出た。
見覚えのない男だが、何故か、危険は感じなかった。


「大丈夫だ」


どこか遠くを見たまま、唐突に男が言う。

少女は2、3度、目を瞬いた。


「お前の母親は、まだ死ぬ運命ではない。もう2、3日もすれば、元気になるだ  ろう」

「ほんとう…?」


こちらを向いた男の目は、金色に輝いていた。

予言めいた男の言葉には、何の根拠もない。

しかし、ゆっくり頷いた男に、不安に沈んでいた桜の心は温かくなった。


「ねえ、あなたはだれ?わたしは、桜っていうの」


階を降り、男に近づく。

近寄ると、相手の背丈の高さに気がついた。

大人と子どもとはいえ、自分の父親たちとは、比べ物にならない。

白い袖が、風に揺れた。


「俺は暁。…桜、お前の願いをひとつ叶えてやろう」


唐突な男の言葉に、桜は首をかしげた。


「おねがいごと?」

「ああ。何を願う?」

「う〜ん…」


先ほどまでなら、悩むことなく母の無事を願っただろう。

しかし、他でもない男の口から、それは問題ないと言われている。

幼い少女には、他に望むものはなかった。


「…何もない…かなぁ…」

「そうか」


その答えに、男はただ頷いた。

ふと、少女は何か思いついたように、男の顔を見上げる。


「ねえ、暁のおねがいごとは何?」


思いもよらないことを問われたからだろう。

金色の目で、男は少女を見下ろした。


「…何故、そんなことを聞く」

「えっとね…」


考えながら、幼い少女は一生懸命に自分の思いを述べる。


「私ね、さっき、暁が、母さまはだいじょうぶって言ってくれて、うれしかった  の。だからね、そのぶん、暁に、おかえしがしたいの…だめ?」


小さな目で、頭上の金色をじっと見つめる。

ふっと、男の口角が上がった。


「…いや、悪くないな」


ぱっと、桜が笑う。その名の通り、桜の花のような華やかな笑顔である。


「じゃあ、おねがいごとを言って!はやくはやく!」

「そうだな…」


男は膝を折ると、少女の目に高さを合わせた。


「では、お前の願いを聞くまで、この屋敷に来てもいいか」

「…?」


男の発言の意味がわからなかったのだろう。少女はきょとんとしている。


「…また、来る。ではな」


そんな桜の頭を、そっと撫でると、また強い風が吹いた。

一瞬、ほんの瞬きの間に、男の姿は消えていた。


「…また、きてくれるんだ…」


少女は嬉しそうに、男の消えた空を見上げる。

抜けるような蒼空が広がっていた。

 

 

 


(2013年4月20日)






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