暦の上では春になっても、気温はなかなか上がらなかった。
例年ならば、桜の誕生日は、その名の花を眺めながら行われる。
しかしその年は、蕾も固く、木の芽も小さく、寒々しい様子だった。
長く望まれた長子の成人に、遠方から知人も訪れ、大層な賑わいだった。
大勢の客人の前で気を張っていた桜だったが、儀式の後、ついに倒れてしまった。
父は代わりに、跡継ぎの楓を人々に紹介した。
姉の祝いの席で、跡継ぎとして前に立つ楓を、侍女たちは批判した。
そして桜に同情し、跡を継がないのかと聞くのである。
体調は良くないが、父との約束もある。
身の振り方を決めようというのに、どれも、気乗りがしなかった。
領地にいれば、いずれ楓と後継争いになるだろう。
もしかしたら、子どもの代にまで影響するかもしれない。
遠く、楓の幸せを邪魔することのない遠くに行きたかった。
弱っている桜を追い出すような、非道なことを父はしなかった。
時折、滋養のある食べ物が渡されることがあったが、急かすことはなかった。
しかし、いつまでも自分がいては、争いの種になりかねない。
焦りが心に負担をかけ、心が弱ってしまえば、体の調子も良くならない。
そして夏が過ぎ、秋になった。
涼しくなり、少し体調の落ち着いた桜は、一人夜の庭を眺めていた。
もうすぐ、楓の誕生日である。
できればそれまでに身の降り方を決めたかったが、さほど遠方の縁談はなかった。
父や家臣も、自分を遠ざけたいわけではないと思うと嬉しい気持ちもあったが、それでは望む結果が得られない。
相談できる相手もいない。
桜は夜空を見上げて溜息を吐いた。
「何とかしてやろうか」
…懐かしい声だった。あれから、一年以上過ぎている。
去り際の言葉は自分の聞き間違いで、もう会うことはないかもしれない…
そう思っていた。
「暁様…」
「遠くへ行きたいのだろう」
「…はい」
「それを願うか」
庭の影に立つ暁を見ながら、桜は少し、考えた。
暁の助力があれば、どんなに遠くでも行くことができるだろう。
しかし、楓は行動力がある。
暁の時のように、自分を捜しに行き、帰らなくなるかもしれない。
それならば、いっそ…
「いえ…私を匿っていただけませんか。人の世でなくて構いません」
人の世を出てしまえばいい。
そこならば、通常の方法では行き来することができない。
どれほど探しても全く手掛かりが無ければ、楓も諦めてくれるだろう。
「わかった。では、行くぞ」
いつかと同じように、暁が桜の手を取ると、強い風が吹いた。
そして目を開けると、いつか来た小屋の中にいた。
もう、戻ることはない。
楓に会うこともない。
自分で決めたこととはいえ、とても苦しかった。
「そこの扉の向こうを好きにつかえ。必要なものは用意する」
そんな桜に構わず、暁は用件を言うと小屋を出て行った。
以前は昼間でも燭台の灯りが必要だったが、外から月明かりが入ってきていた。
しかも、遮るものがなにもないにも関わらず、室内はそれほど寒くない。
暁に示された扉は、屋敷にあった建具と似ており、粗末な小屋の中に似つかわしくない。
そっと開くと、畳敷きの部屋があった。
屋敷の自分の部屋と比べても、遜色ない広さと美しさである。
暁が自分を気遣い、用意してくれたのだろう。
大変な願いをしてしまったが、もう、こうするしか考えられなかった。
もしかしたら、迷惑をかけているかもしれない。
ふっと、体の力が抜け、崩れ落ちそうになる。
病み上がりに庭に出ていたせいか、また体調が悪化したようであった。
「夜も更けてきた。…寝ていろ」
部屋に入ってきた暁の手には、寝具があった。
手早く部屋の中央に広げる。
不思議な力をもっているのに、何故か彼は日常的な行為を自分の手で行うことがあった。
雪でできた兎。
花の冠。
楓と二人、いろいろな場所で、いろいろなことを教わった。
屋敷では、一生、知ることのなかったことを。
また、楓のことを考えてしまう。
俯いていた桜の頭を、暁の手がそっと撫でた。
「…おやすみ」
自分で決め、願ったことである。
苦しくても、暁に言うわけにはいかないだろう。
…とても、眠れそうにない。
しかし寝なければ体調はもっと悪化してしまう。
楓は今頃、何をしているだろうか。
床に就き、御簾越しの月明かりにまた、妹を思うのであった。
(2013年5月1日)