目次に戻る

  第8話 ねがい

 

その夜、桜は一睡もできなかった。
考えても、答えはもうでている。
戻ることはできない。
それでも、戻りたい気持ちが消えるわけではなかった。

「起きたか」

そう声をかけ、入ってきた暁は、いつもの装束に戻っていた。
金色の眼も戻っている。

「…はい」
「では行くぞ」

眼を閉じ、片手を暁に預ける。
ふっと、風を感じ、目を開くと、空が近かった。
あいにくの曇り模様だが、晴れていたらどんなに美しいだろうか。
岩に足を取られ、見上げていた目線を戻した。
殺風景だが、この場所は暁によく似合っていた。
その横顔を眺めていると、ぼんやりと遠くを見ていた暁の眉間にしわが寄った。

「…どうしたのですか」
「札が効力を失った。攻撃を受けたようだな」
「攻撃?!」

思わず、声が大きくなる。
楓の安否が気になった。

「…おそらくあの女だ。楓に害は与えないだろう」
「そうですか…」

あの女というのが、誰を指しているのかわからないが、大丈夫だというならそうなのだろう。
いま、どの辺りにいるのだろうか。
ここから、見えるだろうか。
目の前に、実際に楓が現れたら、何を言えばいいのか。
悩む気持ちと、ただ会いたい、姿を見たい気持ちが入り乱れる。
ふと、暁が空中から薄手の一枚の白い布を取り出し、桜に渡した。

「これは…」
「かぶっていろ。そうすれば楓から見えなくなる」
「…ありがとうございます」

しばし、沈黙が続いた。
目を閉じていた暁が、目を開き、傍らの一際大きな岩の上へふわりと飛び乗る。
思わず、それを目で追った。
逆行で暁の顔は見えない。
ただ、遠くを見ているような気がした。

「…やはり、貴方だったのですね…暁様」

一年の間、何度も思い出した声だった。
振り返り、その姿を確認する。
…少し、痩せたようだった。
それ以上に、厳しい表情が気になった。

「思い出したか」

暁に渡された布のおかげで、自分の姿は楓に見えていないようだった。
妹は勝手なことをした自分を、許してくれるのだろうか。
彼女を傷つける選択をした自覚がある。
しかし、許される必要はないだろう。
もう、自分は戻らないのだから。

「…ええ。私はこの山で過ごします。…父上や皆にも、そう伝えてください」

妹の愕然とした表情が辛かった。
しかし、苦労の痕が目立つ妹を見ると、余計な争いの種になるわけにはいかないと、強く思う。
今は悲しいかもしれないが、いずれは忘れ、幸せになるだろう。

「…嘘でしょう」
「いいえ。人の世には、もう、戻りません」
「…私がいるからですか。…私が、姉様を差し置いて跡継ぎになったから…」

楓がいるから、というのは合っている。
しかし、彼女が悪いわけでは決してない。
…ただ、仕方の無いことなのだ。
二人が共にいることは、難しい。
さらに、二人で一緒に幸せになるのは、もっと難しい。
それならば、妹に幸せになってほしい、そう思うのは、姉として当然のことだろう。

「姉様…私は邪魔でしょうか」

そんなわけはない。
しかし、答えるわけにはいかなかった。

「…わかりました」
「っ、馬鹿、やめろ!」

暁が声を荒げたのに驚き、振り返る。
足元に刺さった刀には気が付かなかった。
ただ、紅く染まった楓しか見えなかった。

「楓っ!!」

紅が広がっていく。
楓の命が流れていく。
妹を死なせるために選んだ道ではなかった。
こんなはずでは…

「…どうする、桜」
「…暁様…」
「今なら、願いの変更を認めてやろう…ただし、俺の出す条件を飲んでもらう。…どうする」

それならば、願うことはひとつしかなかった。

「お願いします。楓を助けてください」
「…わかった」

 


そして、屋敷での生活に戻った。
しかし、全て元通りというわけではない。
つねに、寝るときでさえ、侍女に見張られるようになった。
どうやら、また桜が姿を晦ませないか心配しているらしい。
今まで一人だったので、少し息苦しかったが、その気持ちは嬉しかった。

そして、楓の成人が終わった。
これを機に、父は半ば引退。楓が実際の政務を行い、その補助をするのだという。
負担のかかる妹に、余計な苦労をかけたくなかったが、楓の方からよく桜の居室に訪れることがあった。
同じ部屋にいても、まだ会話はぎこちない。
それでも、二人の間には穏やかな時間が流れていた。
楓について口さがないことを言っていた者も、そんな様子を見て、静かになった。
幼い日々のように、無邪気に共にいることはできない。
しかし、今この安らぎを、ずっと保ち続けたい、そう思うのであった。

 

 

一月ほどたち、季節はすっかり、冬になっていた。
寒さに目が覚め、妻戸を開くと、夜明け前の薄暗い庭は、一面、白く覆われていた。
今年も、雪の降る季節になったのだ。
…ふと、暁が作ってくれた、雪兎を思い出した。
南天の実と葉を使った、可愛らしい姿。
二、三日で形が崩れ、溶けてしまったときは、幼い楓が泣いてしまったのであった。
もう、何年も前のことである。それでも鮮明に思い出すことができた。

「調子はどうだ」

物思いにふけっていると、いつの間にか庭に暁が立っていた。
初めて会ったときから変わらない、突然の登場。
最初は驚いていたが、いつしか慣れてしまった。
置いてあった靴を履き、そっと庭に下りる。
薄く積もった雪は柔らかく、冷たさはあまり感じなかった。

「…とても、いいです。…暁様はいかがですか」
「…問題ない」

隣に立つ、背の高い人。
ふと、何故暁は自分のねがいを叶えようと思ったのか気になった。
しかし、違うことを聞いた。

「…暁様は、ねがい、ありますか」

金色の目がこちらを見た。
楓の紅い目よりもずっと変わったその色は、初めて見ると奇異に思うだろう。
しかし、その特異性も含めて、暁という男なのだと、桜には思えるのであった。
ふっと、金の視線が緩む。
暁の手がそっと、桜の頬に触れた。

「…お前と楓が、長く幸せに生きることだ。…達者でな」

ふわり、と身を引く。
姿を消そうとする暁に、桜は呼びかけた。

「暁様!」

暁が動きを止め、こちらを見た。
伝えたいことはたくさんある。言いたいことも聞きたいこともあった。
それでも、一番伝えたいのは、この言葉だった。

「…ありがとうございました」

出会えたこと、共に過ごした日々。
いつも与えられてばかりで、最後まで何も返せなかった。
せめて、感謝の気持ちを伝えたかった。
一瞬、暁の目が、桜をこえ、背後に向けられた。

「いや…俺もお前たちに会えてよかった。…じゃあな」

そう言い残し、あっさりと姿を消す。
もう来ることはないのだろう。再会を示す言葉はなかった。
足元から冷気があがってくる。
そろそろ部屋に戻ろうと振り向いたとき、やっと、その存在に気がついた。

「楓…」
「…朝早くに、申し訳ありません。…この寒さで、姉様が体調を崩されているかもしれないと思い…」

暁は最後、妹にも言っていたのだろう。
自分たち二人が、彼に迷惑でなく、何か喜びを感じさせることができていたなら、嬉しいと思う。

「…大丈夫よ。ありがとう。…あまり外にいては冷えるわ、戻りましょう」
「…はい」

このぎこちなさも、いずれ時間が解決するだろう。
回り道もした。
様々な人に迷惑をかけた。
この先、色々な困難もあるだろう。
それでも、二人、共に幸せになる道があるといい。
…妹の背中に、桜は、そう願った。

日が昇り、空の色が変わっていく。
蒼天の下、今日が始まる。

 

 

 

 

 

 

 



(2013年5月3日)



               第7話               目次に戻る               


inserted by FC2 system