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 第1話  人

 

秋の夜。庭にいる虫の声が、かすかに聞こえる。
障子越しに、廊下の明かりが入っているが、薄暗い部屋である。
慌しく行きかう人々の足音や話し声が遠くに聴こえている。
その部屋の前で、三人の侍女らしき女性が立ち止まり、話し始めた。

「ねえ、聞いた?桜様の話…」
「桜様?」
「ああ。あなたは最近入ったばかりだから知らないのね。楓様の御姉様よ」
「楓様って、跡取りの?御姉様がいらっしゃったの?」
「ええ」
「…では…御姉様が亡くなられたから、妹の楓様が跡取りに?」
「それが、違うのよ」
「違う?」
「桜様はお体が弱かったのよ」
「そうそう。それで、順番を変えて、楓様がなられたのよね」
「まぁ…それはお気の毒ね…」
「そうなのよ。それに桜様は、お人柄が優れていらっしゃったし…」
「楓様は、ああいう方だしねぇ…」

そう言うと女たちは、意味ありげな笑いを漏らした。あまり品の良い笑いではない。

「随分長いこと、お二人のどちらが跡を継ぐかで、家臣の皆様のご意見が分かれていたのよ」
「でも、楓様が跡取りに決まったのでしょう?桜様はどうなさったの?」
「それが、急に姿をお隠しになってしまったの」
「…?亡くなられたの?」
「いいえ。ある朝、急にお部屋から、霞か霧のように、消えてしまわれたのよ」
「ああ、そういえば、あなたが最初に気がついたのだったわね」
「ええ…実は、ここだけの話なのだけれど…」

そう言うと、女は声をひそめ、何事かささやいた。
それを聞いた女たちは、思わず、というように息をのみ、聞き返す。

「それは、確かなの?まさか、楓様が…」
「しっ!声が大きいわよ!」
「ごめんなさい…」
「でも、ありそうよね…あの方は厳しい方だもの…ご自分が跡を継ぐためなら…」
「で、でも、御姉妹なのでしょう?」
「だからこそ、なんでしょう。身近にいるからこそ…ということもあるのよ、きっと…」

「何をしているのですか」

そこへ、向こうから、上品な着物を身につけた女がやってきた。
三人よりも年嵩で、身分も高いのであろうか。厳しい顔で声をかける。

「楓様の成人の儀も近いし、仕事は山ほどあるのよ。口を動かす暇があるなら、手を動かしなさい」
「申し訳ございません」

頭を下げつつ、立ち話をしていた三人の女は慌しく去っていく。
先ほどまで厳しい顔をしていた女も、その様子を見送って、小さく溜息をついた。
その顔には疲れがにじんでいる。しかし、気を取り直すように、足早に去っていった。

 

しん、と夜の空気が漂っている部屋の中で、人の気配がした。
明かりもつけず、部屋の中でじっとしていたらしい。

「…鴉」

その人物が声を出す。落ち着いた、可愛らしい少女の声だ。
しかしその声質と異なり、凍るような声音である。
少女に応えるように、人影が現れた。
鴉というのは、この人物の名なのかもしれない。

「…姉上を探しにゆく。心当たりはあるか」
「…」

無言のまま、人影は一枚の紙を少女に手渡す。

「…山…か。…行くぞ」

そう言うと、少女は傍らの包みと笠を手に取り、立ち上がった。
簀へ続く妻戸を開くと、月の明かりが室内を照らす。
声にふさわしい小柄で華奢な背中が見える。腰には、不釣合いな刀を差している。
艶やかな黒髪の間から、一瞬、紅い光が見えた。
それを隠すかのように笠を被ると、置いてあった草履を履き、少女は庭から、外の世界へ出てゆく。
その後ろを、黒い人影が音もなく追ってゆく。

秋の夜更け。ある、満月のことであった。

 


(2013年4月15日)


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