第1話 出会い

 

 

少女がその男と出会ったのは、夏の午後であった。
元々体の弱かった身重の母が体調を崩した。
薬も効かず、衰弱していくばかりだという。
父も侍女たちも皆、そちらに掛かりきりになっていた。
まだ五つだが、大人しく聞き分けのいい少女は、自然と放って置かれる。
しかし彼女は一人、誰にともなく母の無事を祈っていた。
ふと、廊下から慌しい足音が聞こえてくる。

「桜様」

障子越しに、女が室内の少女に声をかけた。
自分の世話をよくしてくれる、若い侍女である。
常ならば、柔らかく落ち着いている声が、焦りを含んでいた。
少女は不安そうにそちらを見る。

「少し、出かけます。よろしいでしょうか」
「…はい…気をつけてね」
「申し訳ありません、すぐに戻りますので…失礼します」

再び足音が遠のいていく。
常ならばそんな音はさせない彼女だけに、とても急いでいるとわかった。
きっと、人手が足りないのだろう。
桜と呼ばれた少女は、小さく唇を噛んだ。
何もできない、幼い自分の無力さが、苦しかった。
大人だったら、侍女たちのように何かできただろうか。
もう少し大きければ、せめて母の様子を見ることぐらいは許されたかもしれない。
しかし、幼い子に病に苦しむ母の姿を見せるわけにはいかない。
そんな理由はわからないから、一人、部屋に居ながらも、母に会いたかった。

 

風が吹き、庭の木が揺れる。
木漏れ日が踊る。
白い光は美しいが、何の慰めにもならなかった。

「…母さま…」

少女の眦から、一粒、涙がこぼれる。
そのとき、強い風が室内に吹き込んだ。
腕で顔を庇うが、目も開けられないほどである。

 

風が止み目を開けると、いつの間にか、庭に一人の男が立っていた。
変わった装束の男である。
少女はまだ五つだったが、彼がこの屋敷の人間ではないとすぐに分かった。
言葉にはできないが、何か、違和感を感じたのである。
見た目だけではない。
先ほどまで、庭に誰もいなかった。
この部屋の近くにも、人の気配はないし、そもそも大人の男が、少女の居室であるこの辺りに来ることはほとんどない。
いつの間に現れたのであろうか。

「あなた、だれ…?」

少女は立ち上がり、簀へと出た。見知らぬ男だが、何故か、危険な感じはしなかった。

「大丈夫だ」

どこか遠くを見たまま、唐突に男が言う。
少女は2、3度、目を瞬いた。

「お前の母親は、まだ死ぬ運命ではない。もう2、3日もすれば、元気になるだろう」
「ほんとう…?」

こちらを向いた男の目は、金色に輝いていた。
予言めいた男の言葉に、何の根拠もない。
しかし、ゆっくり頷いた男に、不安に沈んでいた桜の心は温かくなった。

「ねえ、あなたはだれ?わたしは、桜っていうの」

心配事がなくなると、当然湧いてくるのは、好奇心である。
この男のことが知りたい。
桜は階を降りると、男に近づいた。
すると、相手の背丈の高さに気がついた。
大人と子どもとはいえ、自分の父親や他の成人男性とは、比べ物にならない。
男の白い袖が、風に揺れた。

「俺は暁。…桜、お前の願いをひとつ叶えてやろう」

唐突な男の言葉に、桜は首をかしげた。

「おねがいごと?」
「ああ。何を願う?」
「う〜ん…」

先ほどまでなら、悩むことなく母の無事を願っただろう。
しかし、他でもない男の口から、それは問題ないと言われている。
幼い少女には、他に望むものはなかった。

「…何もない…かなぁ…」
「そうか」

その答えに、男はただ頷いた。
ふと、少女は何か思いついたように、男の顔を見上げる。

「ねえ、暁のおねがいごとは何?」

思いもよらないことを問われたからだろう。
金色の目で、男は少女を見下ろした。

「…何故、そんなことを聞く」
「えっとね…」

考えながら、幼い少女は一生懸命に自分の思いを述べる。

「私ね、さっき、暁が、母さまはだいじょうぶって言ってくれて、うれしかったの。だからね、そのぶん、暁に、おかえしがしたいの…だめ?」

小さな目で、頭上の金色をじっと見つめる。
ふっと、男の口角が上がった。

「…いや、悪くないな」

ぱっと、桜が笑う。その名の通り、桜の花のような華やかな笑顔である。

「じゃあ、おねがいごとを言って!はやくはやく!」
「そうだな…」

男は膝を折ると、少女の目に高さを合わせた。

「では、お前の願いを聞くまで、この屋敷に来てもいいか」
「…?」

男の発言の意味がわからなかったのだろう。少女はきょとんとしている。

「…また、来る。ではな」

そんな桜の頭を、そっと撫でると、また強い風が吹いた。
一瞬、ほんの瞬きの間に、男の姿は消えていた。

「…また、きてくれるんだ…」

少女は嬉しそうに、男の消えた空を見上げる。
不思議な男だったが、母の無事を教えてくれた。
それに、再び会いに来てくれるのだという。
仲良くなれるだろうか。
頭上には蒼空が広がっていた。

 


(2013年4月20日 公開)
(2013年4月25日 改訂)

 

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