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  第7話  揺らぎ

 

それから一年の歳月が流れた。
暁の住処は、人里から離れているが、とても心地が良かった。
傍に仕える者はいないが、誰に気を遣うこともない生活で、桜の体調もかなり回復した。
冬の寒さも、夏の暑さもあまり感じることはなかった。
変化のない日常。
時折、楓のこと、屋敷のことを思い出す。
戻れたら…そう思うこともあった。
しかし「戻りたいか」と問われれば、頷くことはできなかった。
一度、離れた自分が戻ることで、後継問題は再燃するであろう。
様子を見ることはできないが、きっと、楓はうまく父の跡を継ぐ。
傍で支えることはできないが、それでも妹の幸福を祈っていた。

日差しが和らぎ、夕暮れの気配が近づいてきた。

「桜」

普段、あまり桜の部屋に入ることのない暁がやってくる。
いつもの白い装束ではなく、神主が着るような質素な服装である。

「暁…さま?」

呼びかけに振り返った桜であったが、思わず、呼びかけに疑問が混じった。
特徴的な金色の眼は、ごく一般的な黒色に。
容貌も別人であった。
かけられた声が違っていたら、暁だと気がつかなかったかもしれない。

「…どうなさったのですか?」
「楓が来たぞ」
「え…」

一瞬、呼吸まで止まった。
何も考えることができない。
ただ勝手に口が動いた。

「本当ですか」
「ああ。…鴉という忍がいるだろう。奴と共に来たようだ」
「そうですか、鴉と…」

妹の影のように付き従う存在を思い出し、桜の思考は、やっと動き始めた。

「…では、その格好は、変装ですか」
「ああ。…どうする、桜」
「どうする…?」
「楓と共に戻るか」
「…」

戻りたくないわけではない。
しかし、戻りたいと自分の気持ちだけで言うことはできなかった。
何のために暁に迷惑をかけ、人々に何も言うことなくここへ来たのか。
それを、忘れることなどできなかった。

「お前を探しにきたらしい。…見つけるまでこの山を出ないだろうな」
「そうですね…楓なら、そうするかもしれません…」
「…お前はどうしたい」

ここに来るまでも、来てからも、ずっと楓のことを考えていた。
妹にとって、一番いい方法を取りたかった。
ここに居ることは、一番いい方法ではないのだろうか。
…何とか、楓に諦めさせるしかなかった。本当は、共に戻りたくとも。

「ここにいたいです。…楓には悪いですが」
「わかった」

あっさりと、暁は言う。
桜の葛藤を理解した上で、それを認めているのであった。

「おそらく、明日にはこの辺りまで来るだろう。今日はもう休め」

そう言い残し、部屋を出て行く。
同じ建物の中にいるのだが、暁はあまりこちらに干渉しなかった。
ただ、今のように桜が悩んでいたり、何か変化のあるときに声をかける。
屋敷に訪れていた頃のような、付かず、離れずの距離感であった。
しかし、そんな暁の行動は知っていても、今日ばかりは傍にいてほしかった。
自分の気持ちが、楓の訪れを知り、揺らいでいるのを感じた。
誰かがいれば、冷静に判断もできる。
だが、一人で考えていると、どうしても会いたくなってしまう。
今更、どんな顔をすればいいのか。
そう思っても、妹が好きだという事実に変わりはなかった。

いつしか、真っ赤な夕日が沈み、夜の気配がせまっていた。

 


(2013年5月2日)

 


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